2020年01月22日

久万山騒動

昔、ここ中津地域で起こった大事件。
久万山騒動について書きたいと思う。

今よりはるか昔、中津村は 久主村 という村名でした。

松山藩内の久万山では、享保の大飢饉に続いて、二度にわたって大暴風雨災害があり、飢饉の痛手が十分に回復しない中、不作により米価は高騰したのに対し、重要産物のお茶の価格が下落、また楮(こうぞ)の製紙出荷が厳しく行われ、銀で納める年貢に大変苦しんでいた。

再三にわたる藩への直訴も届かず、家老奥平は年貢を上げ、接待の酒宴を重ね、ひいきから賄賂を受け取る有様だった。

寛保元年(1741年)7月、ついに久主村の百姓が蜂起し、久万山の全百姓に呼びかけ、2843人が大洲領への逃散を決行する

事の重大さに藩は右往左往の大騒動となり、奉公や代官が交渉に赴くが断固として拒絶される。

困り果てた藩では、その交渉役を大宝寺住職の斉秀に依頼した。
斉秀は百姓達の要求条項採択をもって交渉にあたった。

その結果、百姓達も斉秀の必死の説得と藩の妥協的な態度に応じておのおの郷里に帰着した。

藩主松平定喬は、百姓達の要求にほとんどを認め、首謀者に対する追及や処罰もしなかった。
しかし、家老の奥平を生名島に、悪政奉行の穂坂を二神島に、島流しの沙汰を下したのであった。



もう少し簡単に説明させていただくと。。。

久万山には昔、田んぼが少なく主に山畑が多かった。
年貢米を納めることができなかったので、主に茶と紙を売って銀に換え、それを年貢として納めていた。

しかし、災害その他の事情でコメの価格が高騰し、逆に茶の値段が下落した。
さらに松山藩が紙の専売をするようになり、思うように紙を売ることもできなくなった。

百姓が年貢に苦しむ中、対策を立てるどころか一部の役人が私利私欲のため、松山藩が紙の専売をするようになったことが騒動のキッカケとなった。

そこでこの久万山騒動が起こるのだが、、、

久主村が最初に蜂起し、久万山全百姓に呼びかけながら村々と合流し、ついには大洲領への逃散を果たすことになる。

逃散した数は、、、およそ3000名にも及んだという

その後、松山藩は大宝寺の住職へ蜂起した百姓への説得を依頼し、住職は百姓の要望に概ね応えるようにと松山藩へ約束を取り付けた。

そして百姓の要望はほとんど叶えられ、誰一人処罰されること
なく騒動は終了した。

※逃散は百姓一揆の一つで、領主に反抗して耕作をやめて他領に逃れて生きる道を求めようとするものである。


この騒動について伝えたい事は、、、

@久万山全土を巻き込んだ蜂起を最初に久主村が行ったこと

A一揆ではないにしろ、蜂起を行えば首謀者の厳罰は免れない。
 しかし、今回の騒動で首謀者に対する罰は一切なかった。

B百姓の要望のほとんどが叶えられた

という点です。

先人達の行動力と智略には感服致しますね
(;^ω^)

20200121_120134.jpg

松山藩絵師 遠藤広実 が描いた 久主村 の風景

20200121_120143.jpg

柳井川村 休場から久主村を一望して描いた。

20200122_095336.jpg

現代の風景 木々や道路で一部見えないが、
絵図とほぼ同じ位置取りだと思われる。
posted by ニャカツ at 20:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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